※もしもすぎるお話


 君の名前


   038:震える腕

 抗戦の声を声高に、それでも毎日送る生活にあまり変化はない。いやまぁ変化はあるか。卜部はつれづれと思い起こしながら外套を羽織った。振り向きざまに見据えるこの家屋も本家ではなく別邸だとかそうじゃないとか。多少後ろ暗い行為もする卜部にはひたすらどうでもよいことだ。食うに困らぬ寝るに困らぬと揃った環境に生まれつくのも運だ。縹藍の髪は夜闇に溶ける。襟巻きだけが灰縞に浮かび上がる。直属上司である藤堂の見立てで購入したものだ。藤堂はあれで目が肥えているから高価くとも質の好い物を好むきらいがある。その藤堂の使い走りで、明日にも消えそうな日本の最高権力者へつなぎを取ったり要件を経由したりする。藤堂も忙しい。枢木ゲンブは言わずとも。
 日本という名称が消えても多分日本は変わらない。喧嘩を売られて多分買って、それで多分負けるのだ。国同士の諍いの勝敗は今後に関わる。ただ、と思わなくもない。底辺での生活において抑えつけてくる相手が誰になろうが大して変わらない、か。締め付けは厳しいだろうな。それが負けるということなのだ。日本に喧嘩を売っているブリタニアという国は温情にあつい国ではない。聞いた話では人質を取られても人質こと相手を蹂躙する。何より戦闘機のレベルが違いすぎるという話だ。根本的な性能。精度や駆動域の違う兵器を相手にこの国は多分負ける。前線に身を置く藤堂が寝物語に卜部にこぼした。平素、そういう失態を犯さない藤堂のこぼれた失言はそれだけに深刻だ。卜部、この国は多分消えるのだ。藤堂は卜部が知り得ない情報まで行き着ける位置にいる。その藤堂が負けるというからにはそうだろう。駆り出される前線で痛感もした。生きている事自体が幸運だ。
 襟巻きに包まれた口元へ吐く息が白く凝った。伏魔殿の異名を取る政の世界。卜部の位置や実力でできることは皆無だ。卜部は多少戦闘力に長けた戦闘要員でしかない。前線で銃を構えて銃撃にさらされる立場が全体を俯瞰せよと言われても卜部の能力は対応できない。だから異を唱えるつもりはない。負けるだろうと言われたなら負けるのだろうなと思う。それでも。こんな場所へ本家でなくとも家を一軒構える男は識っているのだろう。腹づもりは知らない。それこそ知ったことではない。卜部がなにか言ったくらいで影響があるような近い位置ではない。
 隠しへ素手を突っ込んで肩をすくめる。この国の冬は冷える。春先に綻ぶ花と汗ばむ夏。彩り鮮やかな秋を経て白と黒の世界に包まれる冬を迎える。気温や湿度のゆるやかな変化は国土特有のものだ。季節ごとに着こむ衣服の枚数が変わる。器具で補うには余りある変化だ。冬の空はポッカリと黒く星星が点々と散る。勝手口から出入りする身分として見送りはいない。もっとも勝手口と言っても表札まで掲げる立派さだ。この感覚は判らないな。夜半という時間を気遣って静かに扉を閉める。取り残された土道と脇の林を眺めながらいつもどおりに帰っていく。
 がた、と耳慣れる音がして反射的に振り向きながら数歩飛び退る。急な襲撃に対する反応が染み付いている。がたがたともたつきながら勝手口を開けたのは少年だ。品の良い顔立ちと細い黒髪。綺麗と言って差し支えない顔立ちは性別が曖昧だ。首を傾げそうになるが着衣がズボンだ。男か。アイロンの当てられた襟は白く夜闇で仄白い。扱いに慣れないもたつきに慌てながら少年はしきりに卜部の方を見た。
「あ、あの。何度か、お前が来るのを見た」
唐突に始まったそれに卜部が記憶を引っ張りだす。使い走りとしてこの邸宅に訪うのは初めてではない。本来の所有者であるのは枢木だ。たしか息子がいたな。このくらいの年齢だったか。だが枢木の子息でないのは確かだ。顔立ちが亜細亜人のそれではない。欧州やブリタニアに近い顔立ちだ。通った鼻梁や白い肌。発言から考えるとこの少年が卜部を見たのは初めてではないことになる。留学生か。確かブリタニア皇族の皇子と皇女が留学していると聞いている。枢木の子息と同じくらいの年齢だな。考えながら言葉は発しない。締め付けや抑圧にさらされるものの習慣として口数が少ないのだ。
 「おれ…いや、僕は、その。何度かお前を見かけて、それで」
要領を得ない。卜部は夜闇で薄暗いのをいいことに眉をひそめた。理知的な容貌からうかがうに少年はもっと頭が良い。要点を得ない話し方なのは隠し事があるからだ。隠そうとぼかす事柄があれば取り繕うために言葉はさらに曖昧になる。かちかち、と硬質な音がするのに卜部は初めて気づいた。少年はかなり軽装だ。襟元のアイロン具合がわかるということは襟巻きなどで防寒していないし外套も羽織ってない。白い肌は青白いくらいだ。唇だけが異様に紅く澄んだ。
「ばか」
卜部は足早に駆け寄ると襟まりをふわりと少年の首へ巻く。黒髪は絹のように細くてやわい。少年がびっくりしたように紫水晶の双眸を向けてくる。近づいて初めて少年の眼の色にも気づく。日本人の色じゃねぇな。
「さっさと寝台にもどれ」
ぶるぶる、と少年が明確に拒否した。
「僕は施しは受けない!」
泣き出しそうな悲鳴だと思った。ばか、俺だけ温まってられるか。ぽんぽんと頭を撫でる。卜部の長駆は年齢に関係なくだいたい見下ろす高さがある。せめて上着くらい羽織ってから出てこい。紫苑の双眸が集束してから潤んだ。鼻を中心に赤味が広がりぐずぐずと鼻を鳴らす。しきりに瞬く双眸は落涙をこらえて揺らぎ震えた。かたかたと腕が震えていた。外套を脱ごうとする卜部をとめたのは少年だった。戻る、戻ります。だから脱がないで。
「あの、僕は、お前が」
言葉遣いで少年の位置がだいたい分かる。行儀の良い中に見え隠れする野卑は支配者階級。
「いつも一人で帰っていくのを眺めていて。時々顔が腫れていたりしていたから。体はすごく細いのになにかひどいことされたのかなって。でも僕は」
襟巻きごと少年の口を抑える。

だから馬鹿だっていうんだ
言わなきゃ知らないで済むことがあるんだぜ

枢木ゲンブは暴力をふるうことに躊躇しない。その範囲は藤堂に収まらず使い走りにまで及ぶ。激昂した瞬間に居合わせたのが不運なのだ。理不尽な暴力の範囲を卜部は幸運にも知らないが藤堂あたりはさらされているはずだ。
 少年は襟巻きへ鼻先を埋めるように縮こまった。ごめんなさい。目蓋が震えた。黒くてて密な睫毛。女性の化粧のように彩るそれは天然物の存在感を示す。
「まだ話があるなら外套を着ろよ」
むずがるように少年は頭を振る。

お前の名前を教えろ

命令でありながら懇願だった。ごめんなさい。他に聞き方を知らないんだ。お前と呼んでいいのかどうかも判らない。卜部の腕に爪を立てる手元が震えた。名は体を表すっていうから。名前がわかれば関係が変わるって言うから。何かの割れる音や騒ぐ気配や。でもお前はなんでもない顔をして出てきて帰っていく。何度も見ているうちにお前のことを知りたく、なって。

名はなんだろう
身分はなんだろう

どんなに理不尽なことをされても耐えるなら
どんなに理不尽な願いもきいてくれるだろうか

「お前は捨てられた奴でも拾ってくれるか」
卜部は返事を控えた。言葉ひとつでこの少年の気持が変わるのが判る。気分の問題だと言われても不用意なことは言いたくなかった。卜部はただの駒なのだ。手脚が勝手に動いては頭が困ろう。
 「ごめんなさい。一時しのぎだって、僕が安心したいだけだって判ってる。でも」
言葉をください。救いはあるって言葉をください。自分ではない誰かが発する言葉だと思うと少しは心強いから――
「俺はあんたに何も出来ない」
ぼろぼろと少年の眼から涙が溢れた。卜部が巻いてやった襟巻きへ重たい染みが落ちていく。ぐずぐずとしゃくりあげながら少年は不満を言わなかった。
「…お前は戦争に負けることになんか言うつもりはない、ですか」
発音に支障はない。単純にお前以外の呼び名を知らないのかも知れなかった。日本語がどこか空々しいのだ。
「俺が言って変わるなら言うけどな」
それよりお前の、名前。確かブリタニアから留学生が。どんとぶつかってきた温もりが卜部の言葉をさえぎった。

「僕が僕であることを思い出させ、ないで」

「名前を聞くなら名乗るもんだぜ」
少年は駄々をこねるように嫌がった。桜色の爪が卜部の皮膚を抉る。少年であっても制御を振りきった力は強い。痛みを感じながらも卜部はそれを表情に出さない。堪える習い性が卜部にもある。
 意見や言葉を黙殺される低位にいたものとして感想や考えを言葉にしないくせが付いている。少年は不意に強い力で卜部の体躯を茂みに押し倒した。灌木に覆われたその影へ卜部を引き倒しながら少年はそれだけで疲弊したのか次の行為におよばない。上にいても少年の存在はか細い。その白い繊手が卜部の襟をはだけさせようとする。僕だって知ってるんだ。言いながら手つきがたどたどしい。その手を抑えた。
「無理にやっても辛いぜ」
少年が泣き崩れた。卜部の上で卜部の襟巻きに首元を覆いながら、少年の嗚咽がこぼれた。
 卜部は黒髪を梳いてやりながら時折なだめるように頭を撫でる。ガキの扱いは専門外なんだけどなぁ。藤堂のように教室を構えてもいないし、もともと面倒を見るのが億劫だ。慕ってくるものの世話こそするが反発する輩など知ったことではない。
「お前も俺なんか忘れろ」
「――嫌です。僕はお前をずっと見ていて。気づいてくれない、けど、僕はずっと見てた! 襟を乱して帰ったのも頬を腫らして帰ったのも知ってる!」
見据える双眸は紫に潤む。瞬くだけで落涙すると思うのに揺らぐ湖面のようにしたたかだ。
「お前なら僕のこと助けてくれるかもしれないって――」
「無理だ」
卜部は即答した。そしてそれが事実でもある。
「俺は敗戦の濃厚な国の軍属だ。俺があんたにできることは、ねぇんだよ」
「――…そう言われるって判ってた。でも。ごめんなさい。僕はお前にちょっとだけすがってみたかった」
ひとしきり啼泣に震える細い体が卜部から離れていく。ごめんなさい。無理を言ってるって判ってた。でも僕はお前のことを考えて保っていた。

苦しいのは僕だけじゃないって思ってた
最低の人間だって、判ってる

「雪の字ってそれだけ部屋から聞こえたんだ。雪の字がつく男名を僕は知らない」
ごめんなさい、ありがとう。涙と洟で汚れた麗しい顔を攣らせて少年が無理に微笑う。ふわりとやわい感触。唇が重なっていた。好きでした。好きです。僕はお前の名前を知らなくて。お前も僕の名を知らなくて。だから好きです。涙と洟を拭ってきれいな顔は必死に微笑う。

「ありがとう」

寒さに震える小さな体が建物に飛び込む。襟巻きを持って行かれたなぁと卜部は茫洋と思った。寒さに震えて耐える小さな体の熱だけが卜部の腕や胸に余韻を残した。

日本は負けた。
ブリタニアという国に負けた。
屈辱と汚辱と底辺にまみれた生活が始まった。


《了》

ショタルルのかなわない恋とかいいなとか相手をなぜ卜部さんに据えたし
もしも過ぎて自分でもびっくりしてる          2014年12月7日UP

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